2016.02.17 Patrick La Roque

Patrick La Roqueが語る、Xシリーズとの5年間

Patrick La Roque

私はカナダのモントリオールに拠点を置くフリーの写真家である。主に人々、ストリート、商品などを撮影するが、何を撮る場合でも、物語を伝えるよう意識している。
ビジュアルエッセイやドキュメンタリー作品を手掛ける写真家集団「Kage」の創設メンバーの一人であり、ポートレートやコマーシャルに特化したスタジオも運営している。

私の心は奪われた。それは、一時的なものでもなく本物だった。そのカメラは見た目が良く、自信にあふれ、オーラを放っていた。そして、ちょうどその頃写真は、直感的で本能的になっていた時代でもあった。色々なシーンが頭によぎる。ロンドンの霧の中をダフィーかベイリーズでふらふらになっている時、ぱっちりと目が開いたモデル、男が男で情熱の思うままに動いている姿・・・色々と書き過ぎてしまったが、これを読んでいたら私が富士フイルムのX100について書いていることはわかっていただけるだろう。

皆が予期していなかったカメラだった。世界中の写真家が各々のブログやソーシャルメディアで情報を発信し、質問を投げかけ、存在しなかったコミュニティが突如現れた。幸運にもカメラ実機を入手できた私のような写真家は、次から次へと投げかけられる質問に対して返答をして、作例を提供して、作り話を事実から切り離す日々に追われていた。
ある人は「フォーカスができない」と言い、他は「ヒップスターのおもちゃ、ファッションアイテム」としてこのカメラを認めなかった。「いずれはテクノロジーの進化についていけなくなるカメラ」とも言われネットオークションで安く売られたりもした。多くの人々は「このカメラはマーケットから存在しなくなる」と言ったのだ。
事実は異なる。このカメラは現在も存在する。
X100の発表から1年後、X-Pro1が発表された。私はこのカメラを購入して、誕生してまだ間もないXシステムと共に旅立つことを決意する。ニコンの機材は売り払った。約束、期待、希望という言葉が先行して3本のレンズしか選択肢がなかったにも関わらず。そしてこんなに素晴らしい旅になるともまだ知らずに・・・

精神

巨大なスクリーンに映し出された待望のX-Pro2の発表をジャーナリストや写真家で埋め尽くされた東京ミッドタウンの発表会場で見ていた。良く考えてほしい。5年前は、ありえなかったことだ。今こそXシリーズは高性能なレンズ群、アクセサリー、業界をリードするミラーレスカメラがある。上位機種には独自技術を駆使したセンサーを搭載し、往年のフィルムで培った色再現を可能にする独自開発されたプロセッサーを採用している。そして、世界各国から集まった「X-Photographers」と熱心なユーザもXシリーズにはいる。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、写真家として今の私がいるのもXシリーズと出会ったからこそだ。偶然なのか運命なのかそれはわからない。ただ、写真家として新しい挑戦を試みようとしていた時にXシリーズが登場した。Xシリーズが先だったのかそれとも私の挑戦が先だったかはもう覚えていない。だが、Xシリーズのカメラを手にしてからは仕事でも、家族行事でも、旅行でも常に一緒にいた。良いことも、悪いことも、間違いも、軌道修正も全て体験した。エコシステムがメインストリームになるのも目撃した。聞いたこともなかった”Kaizen(改善)”という言葉も学んだ。ある日、古くなったX100に新たな生命が吹き込まれたのだ。その後、他のカメラも同じように生まれ変わることになる。そしてなによりも、写真家と意見交換をする富士フイルムとのディスカッションに私も参加することができた。私や他の写真家が「ファームウエアアップデートを継続すること」と意見したのを覚えている。プランニングからデザインまであらゆる工程で写真家の意見を取り込んできたカメラシステムの進化を目の当たりにした。「写真」を大前提に考えられたエキサイティングで価値のあるものを創りだすという強い欲望のもと進化を遂げた。それは単なる機材ではないと思う。職人が創りだすクラフトだ。

記念式典で、マグナムフォトの写真家David Alan Harveyはどのように撮影するのか?と質問されていた。その問いに対して彼は笑顔でこう返事をした。「レンズを開放にしてシャッターを押す・・・」会場にいた全員が笑った。単純な答えに聞こえるかもしれないが写真の真髄に迫り、Xシリーズのすべてを語っている。スペックのすごさや技術の進化もあるが、写真とは世界とつながることにある。自分の声を世の中へ届け、そして他のみんなの声も聞くのだ。ビジュアルを通じて我々の間に存在する垣根をなくし、迷いのなかから抜け出すことにある。
そう、写真とは魂だ。

懸け橋、希望

David Alan HarveyとX-Photographer写真展へ向かう途中に階段ですれ違った。握手とわずかの言葉しか交わすことができなかった。幼いころ夏休みに家族で過ごしたノースカロライナ州のアウターバンクスについて話したかったし、暗闇、精神、と真実について話りあいたかった。だがそれは、また別の機会の楽しみにしておこう。それよりも彼と同じように考えていることを伝えたかった。「写真は世界の共通言語である」と。そして、言語とは言葉であり感情であり、数字や図ではないということを。我々のカメラはそれらを実現する通訳者でなければならない。

X-Pro1からX-Pro2の発表に至るまで、全ての領域で大幅な技術の進歩が見れる。数年間でこれだけ成し遂げられるものかと驚くばかりだ。ハイブリッドビューファインダー、EVFの進化、レンズの品質、ソフトウエアの改善、機能拡大など。
今まで発表された上位機種のほとんどを試す機会があった。その度にとてつもないスピードで進化を遂げていることに驚いている。使っていくと多くのユーザはXシリーズには、言葉で表現するには難しい魅力がある事に気づく。ソフトな表現力も兼ね備えているシャープネス、シャッター音、レンズフレアの表現、無機質といってもいい使い心地など。スペックシートには決して書かれることのないものばかりだが決して偶然ではないと思う。写真家とシステムが親密な関係になれるように細かいところまで考えられた結果と私は思っている。全ての要素を取り組むことで実現したカメラだ。
完璧なのか?答えはノーだ。それでは、冒険は終わってしまう。個性的なのか?イエス、個性いっぱいのカメラである。
これからも新たな挑戦があるであろうし、世の中は常に動いている。未来がどうなるのかはわからない。だが、Xシリーズが目指す方向を見失いさえしなければ私は未来の心配をすることはない。事実、私は楽観視している。不安にさせるようなことを耳にしたことがないのだから。写真文化が歩むべき道の光を灯しているかぎり、我々は飛び込み冒険をする。美しいのか醜いのかは我々人間次第だが、この素晴らしいツールと手に取って生活の詩を描く。
私からのXシリーズへの希望はとてもシンプルだ。これからの20年も、今までの5年のようにしてほしい。
待ち遠しくてしかたがない。